東京高等裁判所 昭和31年(う)729号 判決
被告人 山崎久七
〔抄 録〕
論旨第一及び第二点。
最高裁判所の判例(昭和三〇年(あ)第四七八号、同年七月七日第一小法廷決定――最高裁判所判例集第九巻第九号一八五六頁以下――参照)は刑法第二百四十六条第二項にいわゆる「財産上不法の利益を得」とはすべて相手方の意思によつて財産上不法の利益を得た場合を言い、詐欺の罪で得た財産上不法の利益が債務の支払を免れたものであるとするには、相手方たる債権者を欺罔して債務免除の意思表示をなさしめることを要し、単に逃走して事実上支払をしなかつただけで足りるものではないと解すべきであるとして、犯人が飲食、宿泊をした後自動車で帰宅する知人を見送ると申し欺いて被害者方の店先に立ち出でたまま逃走した事案につき、原審が代金支払を免れた詐欺の罪の既遂としたことを失当であると判示している。この判例によつて見るときは、刑法第二百四十六条第二項の不法利得罪を構成するに必要な被欺罔者の錯誤に基く財産的処分行為は、検察官が所論において言つているように、被欺罔者が錯誤に基いてただ単に代金の請求をしなかつたというだけで足りず、原判決も言つているように、被欺罔者が錯誤に基き債務を免除するとか、支払の猶予を与えるとか、その他なんらかの財産上の利益供与に関する積極的な処分行為を必要とするものと言わざるを得ない。
所論公訴事実は、
被告人は、昭和三十年九月二日から七日まで山形県最上郡大字富沢二五三七ノ五番地温泉旅館赤倉ホテルこと鈴木繁郎方に宿泊滞在していたが、その内所持金を費い果して支払に窮した末、宿泊料を踏み倒して逃走しようと企図し、九月七日午後七時四十分頃同旅館の女中齊藤うんに対し映画を見に行つてくると申し詐つてその儘逃走し宿泊料等合計金二千八百六十九円の請求を不能ならしめて財産上不法の利益を得た
というに在るが、証拠によつて明認し得るかぎりにおいては、被告人は、ただ、すでに宿泊した料金の支払に窮し、右旅館の女中に詐言を構えてこれを未払のまま逃亡したというに止まり、原審判決も述べているように、被欺罔者において錯誤に基き債務を免除したとか、支払の猶予を与えたとか、その他なんらかの財産上の利益を供与する処分行為に出でた事実はこれを認めるに由がないから、前記判例の趣旨に照らし、明らかに右公訴事実は罪とならないものというのほかはない。
所論において、昭和三十年九月四日頃には、被告人は、すでに予定の宿泊飲食代金等を支払える見込がなく、亦他にとるべき手段とてなかつたのにかかわらず所持金があるもののように装い、まだ、三、四日間引続き滞在するが如き言動を示して斎藤うんを欺罔し同女をして代金の支払をうけ得るものと錯誤に陥れて投宿を続けたものであると主張して、恰も、被告人は、少くとも昭和三十年九月四日頃以降は、所持金もなく、宿泊料を支払える見込ないしは支払う意思がないのに、あるように装うて、斎藤うんを欺罔し、同月七日まで宿泊を続け、もつて約四日間に亘る宿泊料に相当する宿泊の利益を得たものであるものの如き主張をしているが、原審第三回公判において、被告人は検察官や弁護人の質問に対し自分は右宿泊の料金は、実家に連絡してどうにかして貰う積りであつたという趣旨のことを供述している一方被告人の実父山崎寅治の同公判における証言によれば同人は田地約一町、畠八反山約六反を所有し、居村中位の百姓で、同人方は比較的財政豊かな家庭であることが認められ、従つて、若し、被告人において宿泊代金の工面方を右実父に申し送るときは、その送金の必ずしも困難なことでなかつたことが窺えないでもないから、被告人が右宿泊中宿泊代金を支払える見込ないしは支払う意思がなかつたという事実は、必ずしも容易にこれを確認し難いところであるばかりでなく、元来、右検察官主張の事実は、本件公訴にかかる前示訴因事実とは著しくその態様を異にし、攻撃防禦の如何によつて被告人の罪責の有無が決定される重要事実に属し、適式な訴因変更の手続なくしては到底これが事実を認定するに由のないところであるから、原審が、これが事実を看過し、もつて事実誤認の過誤を冒したという趣旨の所論は採用し難く、原審が刑法第二百四十六条第二項の解釈上前示本件公訴事実は罪とならないものとして、この点につき被告人を無罪としたことはまことに正当であつて、この点につき原判決には事実誤認ないしは擬律錯誤の過誤はない。
(三宅 河原 遠藤)